『ダンサー・イン・ザ・ダーク』賛否両論の裏にある不変の真理
言わずと知れた、ラース・フォン・トリアー監督の最高傑作、ビョーク主演によるミュージカル映画(2000年)です。
この作品を初めて観たときは、映画が終わった後もしばらく立ち上がれないくらいの衝撃を受けたものでした。
喜怒哀楽のあらゆる感情が、これでもかと揺さぶられます。「心に残る」とか「考えさせる」などの言葉では言い表せられない、物語自体が1つの体験となって、それを目撃した人の心の中で生き続ける。それも、1週間位うなされるほどのトラウマ的体験となってーー
これほどの強烈なブローをくらわされた映画は、これまでに(その後も今に至るまで)1つもなく、間違いなく唯一無二、私のなかではナンバーワンの作品です。
しかし、この作品ほど賛否両論を巻き起こした映画も他にはないのではないでしょうか。
「見る人を選ぶ」どころではない、「(映画リテラシーの高い)ごく一部の人しか見てはいけない」映画です。
まずこの映画を鑑賞するうえで知っておきたいのは、これは現実世界の話ではなく、「寓話」だということです。
普通の映画のように、現実世界を舞台にした話だと思って観ると、ただただ罪のない主人公がいたぶられるだけの、観るに堪えない話になります(こんな映画を観る人の気が知れない)。。
なかには「実話に基づいているのか?」などという、とんでもない感想を目にしますが、そんなわけないでしょう!
話の流れを辿っていけば、そもそも現実の話に寄せる気もないことがわかります。
【以降、ネタバレです】
あのセルマ(主人公)が、いくらなんでも人殺しまでしないでしょう。
かりにそういう結果になったとしても、あの罪で死刑にはならない(しかもそんなにすぐに決定?)
息子の目の病気はそんなに逼迫していたの(すぐに手術を受けなければならないくらい)?お母さんの失明と同じタイミングに??
こんな究極の選択を迫られることって、現実世界でありえないですよね!?
というわけで、これはトリアー監督の真骨頂である、寓話なのだ(彼は童話作家アンデルセンの生まれたデンマーク出身であることを忘れてはなりません)という観点に立つと、まったく違った世界が見えてきます。
これは、不条理に満ちた世の中で生きた、聖女のお話なのです。
たとえるなら、
『マッチ売りの少女』
『フランダースの犬』
『幸福の王子』
どれも救いのない(ように、一見思える)お話ですよね。
しかし最後の最後で、主人公は救われるのです。神の声を聞くことによってー
マッチ売りの少女は、マッチの火の中に幻想を見ます
ネロは大聖堂の絵の前で、愛犬パトラッシュとともに、天使に導かれて天に昇ります
幸福の王子では、王子とツバメは亡くなってしまうけれど、その亡骸は天使によって「この世の中で最も尊いもの」として神に捧げられます。
そして、セルマは、「歌」によって、その最期の瞬間に恐怖から解放されて、微笑みながら刑を受けます。
外から見れば、悲惨で救いのない結末だったとしても、心の中が平穏であれば、幸福感に包まれているのです。
しかし、ここで描かれていることは、まったくの絵空事ではないことは、現実世界を生きる私たちは知っています。
自分の力では、どうにもならない苦しいこと、怖いこと、悲しいこと、、、そして訪れる悲惨な結末。
セルマの最期の瞬間のシーンで思い起こされるのは、コルベ神父のことです。
あのアウシュビッツで、餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなって、餓死室に送り込まれ、最期を迎えた神父です。
私は、遠藤周作著『女の一生 サチ子の場合』でこの逸話を知ったのですが、とてもここですべてを語ることはできません。
ただ、暗く救いのない地下牢は、祈りと讃美歌によってまるで聖堂のようであったという証言から、彼と受刑者たちは神の恩寵を感じ、おそらく平穏に幸福感に満ちて、亡くなったのではないかと思います。
現在、『ダンサー・イン・ザ・ダーク 』は、4Kデジタルリマスター版として公開されているようです。多くの論争を巻き起こしながらも、20年経った今でも求められ続けているのは、いつの世も変わらない真理を私たちに感じさせてくれるからではないでしょうか。